音は沈黙とはかりあえるのかと問いかけたT/Tがかつて指摘したとおりI/Yにはトートロジー癖がある。
『素敵ならステキだね』
『夜明けが明けたとき』
『金属のメタル』
『プールサイドのそばのもっと横』
しかしI/Yはトートロジー(同語反復)という言葉をT/Tから聞くまで知らなかったようだ。
I/Yは意外な無知をあっさりと白状する。
小説家I/Hと1976年に対談したときも「ステレオタイプ」という言葉を知らないと発言していた。
無知というよりは無頓着と言ったほうが正しいかもしれない。
押韻というのは作詩技法の基本だが、
I/Yは『ナイフ、パイプ、セロファンテープ』などとあからさまな押韻にも無頓着だ。
従来の歌謡曲の押韻のように詩の説話的な流れに乗せるのでもなく、
ラップの詩のように意味を音に還元するわけでもない。
それはかなり意図的な無頓着さで、メタレベルで言葉を選んでいる。
言い換えれば、「韻を踏むなんてこんなもんだろう」といった調子で、
韻を踏むという行為そのものを面白がっている。
言葉を選ぶ場合に、しばしばI/Yは「積極的に無頓着」であろうとする。
その証拠の一つに、I/Yはかつて作詞の際「逆引き広辞苑」を愛用していると発言しているし、
レコーディング中に言葉が見つからず追い詰められたときには、
スタッフに「最後が××で終わる5文字の言葉何かない?」などと訊ねることもあるらしい。
またT/Tとの会話で作詩について「繰り返しの快感を使わないのはもったいない」とも語っている。
それらの発言には「作品」の成立過程を「心情」面から語る恥知らずな振舞いなどできるわけがないといった韜晦も含まれているはずで、
すべて鵜呑みにすることもないだろうが、かなり真実の告白に近いと思われる。
深夜特急に乗ったルポライターのS/KはI/Yから突然電話で「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ」の続きを尋ねられ律儀に本屋へ走ったという。
電話口で読み上げられた「雨ニモ負ケズ」をI/Yはメモを取るでもなく聞きながら
「カヤブキ屋根かぁ」とか「自分を勘定に入れずってすごいフレーズだねぇ」などと感心していたという。
しかしI/Yは感心しておきながら「雨ニモ負ケズ」を結局「ワカンナイ」と言い出すのだ。
作品とは何か心情やメッセージを伝えるもので、それを受け取る者は作者が伝える魂の表出に感動したり勇気づけられたりするものだ。
といった今や絶滅の危機にある価値観は貴重だが、それを信じる真面目な人にはI/Yの発言は悪ふざけ、もしくは冗談に聞こえるかも知れない。
『何か伝えてと望まれても/オレのやりたいことは伝えぬこと』だと事務所の電話番号を詩にしたりするI/Yの行為から何のメッセージも受け取れないと真面目な人は言うのだろうか。
作者に変わるのは「書きこむ人」である。彼は自分の内面に情念や気分や感情や印象などというものを所有してはいない。
彼の中にあるのは巨大な辞典であり、彼はそこから終わることのないエクリチュールを汲み上げるのである。
人生とは書物を模倣することに他ならない。そして、この書物もまた記号の織物。すなわち失われ無限に延期された模倣に過ぎないのである。
『作者の死』ロラン・バルト
『私、嫌いな男のタイプはフェミニストです/いつも言葉を探しているような』(I/Y)