「ところで、自分を明確に人に伝える一つの方法として、ものを言う時に吃ってみてはどうだろうか。 ベートーヴェンの第五が感動的なのは、運命が叩くあの主題が、素晴らしく吃っているからなのだ。」
『吃音宣言—どもりのマニフェスト』武満徹
はたしてI/Yは吃るのかどうか。
「そのままもそ、もそ、も、もそっとおいで」
「友だちさそ、さそ、さ、さそっておいで」
「ギターをホロ、ホロ、ホ、ホロッとひいて」
「いいからまそ、まそ、ま、まそっとおいで」
この《吃音》を含んだ作品でI/Yは私たちをアジアの某都市に誘っています。
その都市は「租界」や「魔都」とよばれたこともあり、歴史を知る者にとっては独特の響きを持った海辺の都市です。
国と国との隙間にポッカリと出現した空白のような街で、「自由都市」の名の元に様々な人種が集まり、
自由と同時にありとあらゆる悦楽と悪徳もはびこっていたと半ば伝説のようにいわれた街です。
I/Yは「なぜか」その都市においでと誘っています。
その理由を問われても「なぜか」なのだという答しか返ってきません。
ですから「友だちさそ、さそ、さ、さそっておいで」と吃りながら誘われるとなんだか怖い気もします。
いかにもあやしげな男の姿が頭に浮かんできます。
その男は山高帽をかぶり、ステッキ片手に夜でもサングラスをかけているのでしょうか。
それは「彼岸」への誘いです。
「彼岸」にはエロティシズムが待っています。
ジョルジュ・バタイユのいうエロティシズム。
わかりやすく言うと「エロいこと」ですね。
あの町に行けば「エロ」があるよと誘っているのです。
しかしエロティシズムにたどりつくためにはタナトスの海を渡らなくてはいけません。
星がみごとな夜の海を渡らなくては、壊れたような空からこぼれ落ちたエロスの都市には行けないのです。
タナトス=死の衝動に身を浮かべてこそ、エロス=生の欲望を知ることができます。
これは「楽しいことの前には苦しいことを乗り越えろ」といった教訓めいた話では全くありません。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり竜田川」
あるときI/Yが座右の銘を聞かれて答えた言葉です。
「身を捨てる」こと、つまりタナトス=死の衝動を受け入れてこそ「浮かぶ瀬」つまりエロス=生の欲望にたどり着くことができる。
タナトスのないエロスはたんなる上っ面のスケベであって、生と死のあいだで存在を震わせることなどできないということです。
この作品が発表されたのが1979年、時代はバブルに向かっていました。
80年代がバブルの時代だと大雑把に考えるとこの作品の持つ意味が少し見えてくるような気がします。
つまりこの時代の「彼岸」にはエロスの町=バブリーな現世の欲に満ちた世界があったのです。
I/Yの80年代の作品を見てみると、そんなエロスの街の状況が描かれています。
「うさぎよりは酒を運ぶバニー/まぶしいね/けものよりは金を使うBoy/気をつけて」 I/Y
この1983年の作品に象徴されるように、80年代のI/Yは街のエロスを、その中に身をおきながらも醒めた視線で切り取ろうとしていたようです。
そんな時代の入り口に置かれた、吃音によるエロスへの誘い。
しかし、その誘いの言葉を吃りもせず、すらすらと滑らかな口調で発し続けたのが80年代のバブルでした。
タナトスは忘れろ、エロスだけを見ろと誘っていました。
「そのままもそ、もそ、も、もそっとおいで」と吃りながら誘うエロス。
吃ることは、エロスとタナトスの境界にいる存在が戸惑い震えること。
そしてエロスの街の明りは、タナトスの海の向こうにあることでより強くあやしく輝きを増しているのです。
「流れないのが海なら/それを消すのが波です」I/Y