風あざみ

好きな季節を問うとは困ったひとだ。

「春が好き」と答えれば「陽気な人」あるいは「脳天気な人」と思われはしないか、
「秋が好き」だと「憂いのある人」「冬が好き」なら「精神的に強い人」などと思われはしないか。
そんな一瞬の恐怖。
好きな季節を訊いてあなたは私の何が知りたいというのか。
「好きなのは・・・夏かな」
などと恐る恐る答えたときにあなたの頭の中にある夏のイメージは何だろう。

「夏が過ぎ風あざみ」I/Y

毎年、夏になると「“風あざみ”という言葉は辞書にないんです」と騒ぎ立てるバカをときどきTVや雑誌で見かける。
ご丁寧に「風あざみ」を求めて九州ロケをしたTV番組を見たことがある。
辞書にない言葉の何が珍しいのか。
「風あざみ」は5文字であれば「かぜひいた」だろうが「たべすぎた」だろうが何だっていいのだ。

この作品からあなたの過ぎ去った夏が想起され、この作品で描かれた「夏」を好きになったとしても、
作者であるI/Yは今まで「夏が好き」などとひとことも言ったことがない。

「いやな夏が/夏が走る」
「帽子を忘れた子供が直射日光にやられて死んだ」
「あの子にもらった夏風邪が/時間をテレビと終わりに区切る」
「流行歌になる以上/夏の恋の終わりは気軽に」
 
「夏願望」という作品は“夏が好きになりたい”という願望だ。

作家のI/Hは「風あざみ」によってI/Yはポピュリズムに新境地を拓いたというような発言をしていたが、
ロシアから帰って青ざめた馬を見たり風に吹かれたりしたI/Hは、
早い段階からポピュリズムを肯定することで自らの文学を構築した。
だからI/Hは「君はうれしさ余って気がふれる」を語るより「夏が過ぎ風あざみ」について語ることを選んだ。
それもいいだろう。

しかしT/Jは「風あざみ」についてこんなことを言った。

「メロディーが詩になってるんだから、もう詩なんてなんでもいいの」所ジョージ

このT/Jの発言にこそ感動する。


「メロディーができないときは詩もできないもんだ」I/Y