望むカタチが決まればツマンナイ

 I/Yが黒澤明についてエッセイを書いています。

『志村喬の微笑━「虎の尾を踏む男達」の背景』として発表されたその文章の中でI/Yは、
弁慶を演じた大河内伝次郎の後頭部が「野生のジャガイモ」を連想させると表現したり、
「眉の際立ったコントラストが美しい」と賞賛するなど映像に対する直感的なまなざしが興味深いのですが、
このエッセイの主題は、黒澤明の初期の作品「虎の尾を踏む男達」に一瞬かいま見た志村喬の静かな微笑から、
遺作『まあだだよ』で一同が大声で笑うシーンの「画一的な人間集団」の「硬直した」笑いにいたる変化についてです。
それをI/Yは次のように書いています。
「皆に“画一的”に尊敬され、畏れられ、そして恐れられているという状況は黒澤明にとって一体、どんな感慨をもたらしたのだろう。
解っていながら、もはやどうにもならない場所に立たされ、選ばれたものだけが神から与えられる特殊な孤独をどう、受け止めていたのだろう。 
『虎の尾を踏む男達』での志村喬の微笑が、いつの間にか黒澤明の世界からなくなってしまった原因は、黒澤の理想がはからずも持っていた“裏面”と、破格な成功への“代償”と、これは誰にも訪れる、“時の経過”なのかもしれない。」
 この文章から、I/Yが「破格な成功者」である黒澤明を自身とダブらせ、その「代償」と「時の経過」によって
「もはやどうにもならない場所に立たされ」てしまった自分自身の「特殊な孤独」を吐露しているといった読み方が可能かもしれません。
しかしここで考えてみたいのは、「理想がはからずも持っていた“裏面”」という部分です。

 理想を持ち、それを追い求めることが人生において大切なことだと一般には言われています。
少なくとも「成功者」たちの物語が用意する教訓はそのように要約できるはずです。
そこでいわれる「理想」とは、ある固定化した価値に向かって自己を構築していくことで、
その理想の内容や、いつその理想が生まれたかなどは実はどうでもよいのです。
大事なのはその「理想」を固定化し、動かないものにすることです。
理想の実現が最終ゴール(到達することのないゴールかもしれませんが)だとすれば、
そのゴールが固定されずに、あちこち動いてしまっては困るのです。
そしてその固定されたゴールにいたるまでの時間はいつも「途上」と呼ばれるはずです。

「いま」の連続からなるはずの人生が、つねに何かに向かう「途上」なのだという認識は、過酷なように見えて実は甘い罠です。
なぜならすべての「いま」は「途上」であり、私の「理想」はゴールの場所に固定されてあるのだと、いつでも安心していられるからです。

 I/Yは別の場所でこのように書いています。
「社会や親の都合で自分が何かにさせられていくのを、無意識に拒んでいたのかも知れないと思えるのです。(中略)自分は何者にもなりたくないという想いで暮らしつづけていた」
 自己を「理想」に向かって構築していくことを「アイデンティティーの確立」などと名づけ、
「何者かになる」=「アイデンティティーの確立」を賞賛してきた時代がつい最近までありました。
「アイデンティティーって何に必要なの?」(I/Y)
 ただひたすら「理想」に向かった黒澤明が、はからずも到達してしまったのが「硬直した笑い」だったという皮肉めいた結末は
「近代的自我」がその限界を見せてしまった瞬間だと言ってもよいでしょう。
それは黒澤明個人だけが背負った限界ではなく、周到に避けようとしても決して避けることのできない近代のダブル・バインドであり、
それこそ「理想がはからずも持っていた“裏面”」の正体です。
近代的自我によって「自然」をコントロールしていたつもりの「理想」が、
いつのまにか笑い顔から「自然さ」を奪い、その顔を硬直させていくのです。

 では一体「理想」を持たずにどのように「いま」を生きればよいのでしょう。
たぶん重要なのは「理想」を持たないことではなく「理想」を固定化しないことです。
固定化されず自由に動き回る「理想」は、もはや普通の意味で「理想」とは呼ばれないものでしょう。
それでもかまわないのです。
自分自身が「いま」この瞬間も絶えず変化し続けることによって「理想」に安住の場所を与えるのではなく、
変化し続けることのできる可能性を「好奇心」と呼び、
動かない「理想」よりも、常に波打ちざわめく「好奇心」に思い切って身をゆだねてみたいと思うのです。  



「闇夜の国から二人で船を出すんだ/海図も磁石もコンパスもない旅へと」I/Y