それは「めくら」という「差別用語」を使用したため作品集(アルバム)から一時消えていた作品をもってそう断言するのではなく、いくつか作品を並べてみればそこにさまざまな種類の「残酷」が見えてくるからです。
これ以降の文章は「差別」や「残酷」においてI/Yを糾弾するものでも顕彰するものでもなく、もしこの文章に何らかの意図があるとすれば、多くの人が無害なものだと思っているI/Yの作品が決して安全なものではなく、ときとして危険を標榜するほかの作家(アーティスト?)よりも救いようのない「残酷」を持つものであるということを確認するためです。
あるいはだれもが薄々気がついていながら、気づかぬふりをしているようなその危険とはどのようなかたちであるのかが知りたいということです。
◆たとえば「身体障害者差別」として
「めくらの男は静かに見てる/自分の似顔絵描いてもらって/似てるとひとことつぶやいている/あなたの目と目よ涙でにじめ」
これが一時消された作品です。この残酷さはどうでしょう。『自己嫌悪』という題名がせめてもの救いのような気さえします。
身障者という「他者」に対して憐憫のかけらもなく突き落とす嫌悪すべき「自己」とはなんでしょうか。
◆たとえば「精神障害者差別」として
「君はうれしさあまって気がふれる/空ではカラスも負けないくらいに喜んでいるよ」
花見の場所で気がふれる君。町田康もその危険さについて語り唄いましたが、「気がふれる」と「頑張れ」が同じ作品に含まれることのパンク。
以前、浜崎あゆみという歌手の握手会にきたファンの女の子が「いつも励ましてくれてありがとう」と泣き出してしまい、浜崎あゆみも思わず泣いてしまうという場面をTVで見たことがあります。そんな励まし励まされる関係がセールスに結びついているのだろうかと、少し構造が理解できたような気がしました。
このI/Yの作品でも「ガンバレ」は繰り返されていますが、そこにわかりやすい「励まし」は全く存在しません。「ガンバレ」という言葉の異様な響きだけが耳に残り、まるで言葉が脱臼をおこしたような「ガンバレ」を言われ続けると、花見の場所で気のふれた彼女がいても不思議ではないような気になってきます。
◆あるいは「性差別」として
「女は清くやさしく生きて/電車に乗れば座席をゆずり/悲しい歌が聞こえてきたら/ホロリと涙流してしまう(中略)/これが女の姿なら/わたしもついあこがれてしまう」
ここで掲げられた女の姿は封建主義的、男性中心主義的な断定と陳腐な理想化です。しかし「ついあこがれてしまう」の「つい」がたいへん重要な響きだというのはご承知のとおりでしょう。
その陳腐な理想が制度の要請であることを知りながら盲目的に受け入れるのでも反旗を翻すのでもなく、「つい」の二文字があらわすのはそのどちらでもないリアルなわたしたちのナマの姿です。
◆それではついでに「職業差別」はどうでしょうか
「だれも見ていない舞台の裏で/何も決めてない掃除婦が働く」
これは華燭虚飾の裏には貧しい現実が隠されているというレトリックでしょう。でもわたしが本当に戸惑うのは次のような作品です。
「彼の職業はプレス加工/アルミニュームを曲げて延ばす/(中略)灰色の指先で/明日の日を探しても/夢見ても願っても/仕事場は流れ作業」
はじめてこの作品にふれたとき、その冷たさに絶句しました。
「窓の外ではリンゴ売り/声をからしてリンゴ売り/きっと誰かがふざけて/リンゴ売りの真似をしているだけなんだろ」
声をからしたリンゴ売りなど存在しないのと同じように、「灰色の指先」の人物など存在しないのかもしれません。存在するのは「きっと誰かがふざけて」プレス加工の真似をしている人でしょう。
「その優しさをひそかに胸に抱いてる人は/いつかノーベル賞でも/もらうつもりでガンバってるんじゃないのか」I/Y