横尾忠則はピカソを「20世紀の限界」「21世紀には何の価値もない」と痛烈に批判しています。
「みんながレベルアップしていってある階層までいくと、今度はこれまでのような自我が噴出したような芸術は耐えられないと思う。ピカソなんて耐えられなくなるだろうね。既に、そうなってきてるかもしれない。」(『芸術ウソつかない』横尾忠則)また、中沢新一は著作のあとがきでレヴィ・ストロースのピカソ批判に共感しています。
「ピカソの芸術は、自然をもとあったところから剥離して、操作のしやすいものにしたうえで、修辞的に再構成をおこなうのが好きな現代の嗜好にぴったりとよりそった方法で創作をおこなった。だからこそ彼は現代の文化のヒーローにもなったわけだけれども、このような自然に対する修辞的な態度は、かならずや人間の精神とその世界に貧困をもたらしていくにちがいない。」(『女は存在しない』中沢新一)二人(レヴィ・ストロースを含めば三人)の「脱ピカソ」あるいは「非ピカソ」宣言ともいえる発言は、広義の「自然」に対しておこなわれた20世紀的なレトリックとエゴイズムへの批判です。
広義の「自然」とは単に地球環境のことだけではなく、人間の身体をも含んだすべての根源的な自然を指します。
20世紀を代表する芸術家としてのピカソが、同時に20世紀の限界を代表する芸術家だという認識です。
私自身がピカソに感じていたぼんやりとした齟齬感のようなものが、上記のような発言、特に中沢新一の『女は存在しない』を読んでその輪郭が見えてきたような気がしました。
ひるがえって見ると、私の周囲には「好きなアーティスト」としてピカソをあげる若者(私より若いという意味です)が何人かいました。皆、美術関係の学校の学生や卒業生や美術あるいはデザインに興味のある若者たちです。
私は彼や彼女たちが会話や文章で「ピカソが好き」だというのを耳にし目にするたび、言葉にならない違和感を感じてきました。
「若者の保守化」とも少し違う違和感です。
美術の専門教育を受けたことのない人や、日常的に美術に触れる機会のない人が「好きな芸術家(画家)」にピカソをあげる場面は少ないような気がします。もちろん知識としてピカソの名前は知ってはいても、本当に好きな芸術家は別にいるのではないでしょうか。
ルノアールやモネなど印象派の画家の展覧会はいつも満員だし、竹久夢二やミュシャなど退廃系?の画家も熱心なファンが多いようです。ディック・ブルーナも立派な芸術家です。
ある程度美術を学んだり美術に関わる仕事に就いているか就こうとしている若者にピカソが好きだという人が多いといった印象を受けるのは何故でしょうか。
ここで言う「ピカソ」はひとつの記号にすぎないのかも知れません。
記号は流通し消費される点で商品と同じです。
「ピカソ」という商品は「芸術」という量販店の棚の上で大量展示されていて、その店に入った誰もが一度は手に取ってみるもので、裏に書かれた説明も丁寧で購買意欲をそそられます。
どんな店にも置いてあるから「ピカソ」といえば世界中で通用するので安心です。
それに同じ「ピカソ」でも色々種類ががあって、「青色」も「桃色」も好みに応じて選ぶことができます。
その種類の多さはしばらく「ピカソ」ばかり買いつづけても全部食べきれないほどです。
レジ前のガムみたいなものかもしれません。「20世紀芸術」というコンビニの主力商品です。
絵を描いたことのある人なら、ピカソの驚異的なテクニックがひとつの到達点に見える時があります。その「テクニック」とはデッサンや色彩、構図、筆遣いの巧さはもとより、アフリカ彫刻をはじめとした様々な引用の手法や、一見ラフに描いたように見せて実は巧妙に計算された「ツボ」を押さえた見せ方も含まれます。
そういう私もそのテクニックに感心した覚えがあります。しかし思い返すと心の底から感動したことはないのです。「青の時代」も「ばら色の時代」も「キュビズム」も「彫刻」も巧いとは思いますが、実物を目にしても網膜から奥には届かないのです。クレーやマティスの作品から受けるフレッシュな果実を食べたような舌先が痺れる感覚(陳腐な比喩でしょうか)を受けないのです。
芸術方面で何ごとかを成そうと思う若者にとって、ある到達点に思えるピカソのテクニックは魅力的なのでしょうか。
少し穿った見方をすれば、「ピカソ」と言っておけばその場が丸く収まるだろうと面倒な会話を避ける気持ちが働いているのかも知れない。
「本当はピカビアが好きだけど、話が難しくなり、この場が丸く収まらないから。」そんなシャイな若者がいないとも言えない。
ひとりひとりともっと突っ込んだ話をすれば「実は・・・」と色々な芸術家の名前が出てくるのかも知れませんが、どうやらそうとばかりでもなさそうです。本当に自分はピカソが好きだと思っているらしい。
無理に嫌いになれと言うわけではありません。
その「好き」が、「知」によらず、なにか自分の根源的なものに触れてしまうような、他人から決してうかがい知ることのできない事件性を持っているのなら理解もできそうです。
ですが、見たり聞いたりしたところそのような事件が彼や彼女に起こった形跡が無いのです。
ここで言う「事件」とは、それが驚きや快感や喜びだけでなく、悲しみや絶望や嫉妬をもたらすこともありうるという貴重な外部との遭遇のことです。
だからここで私が言いたいのは若者は知識が足りないのだという話ではありません。
確かに若者は年長者より無知ですが、好き嫌いといった原初的な感覚さえも「知」によって左右され、無意識に抑圧を受ける。その不自由を知らないといった意味において「無知」なのです。それは半端な教育のせいかもしれません。
「知」とは自然を分節化し、意味と秩序の中で、人間の都合にあわせて世界を再構成することで、その「知」を絶対的に信頼し、その「知」が私たちに幸福をもたらしてくれると考えられていた時代はとうに過ぎ去り、「知」を批判的に、超越論的にとらえることが21世紀の「知恵」でしょう。
その先鋒であるはずの若者が「前世紀の限界を代表する芸術」に足踏みしていてはいけないと思うのです。
彼や彼女たちよりはるかに年寄りであるはずの横尾忠則や中沢新一、レヴィ・ストロースの過激とも言えるピカソ批判を「知識」としてではなく、もっと「野蛮な感覚」でとらえたいと思います。
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I/Y